色んな体験

親ガチャよりも、大人運③ 女王の教室

経済的な不自由はなかった。でも、両親や祖母と暮らした家庭環境〈親がちゃ〉で、学校や地域という環境で、幸せな子供時代の記憶はない。

両親や祖父母、教師など深い関りがある大人、子供の頃に接触した大人達との会話や印象が、かなり人生に影響していると、成人して久しい今、改めて思う。

私は小・中学時代には学校の成績が、とても悪かった。

学年1と言わぬが、出来の悪い生徒トップテン圏内にいた。意地悪い同級生が「アイツいたらオレら最下位にならない」「あんな頭悪いやつ、見た事ないわ」と言うほど、成績が下位。

サボっていないし、不面目でもなく、薄いベールで世界が隔てられてる感覚。

知りたい意欲はあるが、周囲の言葉や動きが理解できなかった。

そんな想いや戸惑い、ジレンマに耳を傾けてくれる人はなく、一人で戸惑っていた。

 

小学校に入学した当初から私は学校生活につまずいた。

教室では「先生の言う事は絶対」であり、担任教師が創る空間は、その教師の色が濃く、例えは変だが『大奥』みたいな閉鎖的な世界だ。

昭和時代の担任教師は、将軍様/女王様に類する存在とも言えた。

今でも思う、クラスという集団では中間で在りたかった。

良くも悪くも目立たず、皆の中の一人が良かった。誰かから過度に干渉されたり、目をつけられる事、前に立たされる事が、小学生時代の私は臆病で苦痛だった。

授業内容を理解でき、宿題をするは勿論、忘れ物がない、クラスに馴染む、給食を残さず食べる、子供らしい溌剌さ、病気で頻繁に欠席しない、問題行動をしない等の、

沢山の子供の中で〈悪目立ちせずクラスで過ごせる条件〉から、私は外れていた。

悪く目立ったと言える。

そして、大人運が(私にとって)悪いことに、小学1年と2年を受け持ったベテラン中年教師は、頭の良い元気な、明るい生徒が好みだった。彼女は、それを隠さなかった。

頻回に熱を出して休む、成績の悪い、ガリガリに痩せた貧相な子(実際にそう言われたさ)には苛立つ。キツイ態度や刺々しい言葉は露骨で、教室内の誰の目にも明らかだった。

職業的ベテランになると独自の運営方法がある。その女教師はクラス皆に注意喚起する際、私を前に呼び出し、皆の前で「こんな子みたいに●●●してはいけない」と言いながら、私の頬を摘まんで引っ張った。

頬をつねられた、1度や2度ではない。

見せしめ的に前に立たせ手を出すなど、今の日本なら大問題になるだろう。

でも、昭和時代の田舎では、全く問題にならなかった。

 

むしろ両親は、その女教師に「お宅のお子さんは勉強ができない」「▲▲▲がなってない」等と言われ、常に不出来な我が子を嘆いた。昭和時代の田舎では〈教師は権威〉で、親も先生には無条件に従って当然。

小学1年生、2年生で「頭が悪い子供レッテル」を貼られると、かなり挽回が難しい。

担任教師とクラスメイトから、両親と同居祖母から、成績が悪いポジション「ダメな子」扱いが当然となり、何かとキツイ対応をされた。

でも、イジメに遭った記憶がないのは、幸いだった。

おそらく同級生の子供に関心を向ける余力も失せるほど、対・大人との関係で疲弊して、気持ちが萎縮して、閉じた状態だったと思われる。

担任のベテラン女教師と、両親、同居祖母とも〈成績至上主義〉が揃っていたのは、私にとって不運だった。成績はふるわないが他に良い点がある等とは、全く認められず人格否定ばかり。

成績が悪い私への態度やモノ言いは「なんの取り柄もない」「こんな子、あかんわ」等と、批判が日常。当然ながら家での暮らしも、学校生活も楽しくはなかった。

どんな集まりでも、周囲が雑に扱ってよい存在と認識し、それが定着すると覆すのは困難になる。ポジションという(なんとな~く)の集団心理は侮れない。

 

強いストレスは皮膚を乾燥させた。

けれど、渦中にある時は、まして小学生の身では、ストレスの何たるか?を自覚する事はない。自覚できても逃げる場所がなかった。

強く乾燥した皮膚の他、頻繁に熱を出す、

布団に入って数時間は寝つけない入眠障害(と後に知る)、

ひどい歯ぎしり、

絶えず何かに怯えたり身を縮める、

時に風邪をこじらせ喘息の発作がでる、

世の中が怖い。

そんな小学生時代だった。

それでも、皮膚は乾燥にとどまり、湿疹はなかった。アトピー性皮膚炎という病気は、中学3年生になってから始まる。それ以前は単なる〈肌の弱い子〉であった。

 

記憶の中で、小・中学生時代の私に親切にしてくれた大人は、2人だけ。

その内の1人が中学時代の英語の先生だった。

昭和時代の田舎で、初めて接触する英語。

英語は運が良かったのだ、成績は悪くても嫌いにはならず今に至る。

 

小学生時代の、女王の教室。

女王の言葉を鵜呑みにした両親と祖母のいる家。

あれは本当に恐ろしい場所だった。